2005.9.30

大須賀からまだ手紙が届かないよ。
10日に来るって言ったのに。
もう月変わっちゃうじゃん。


2005.9.26

大須賀町のちっちゃな文化展に今年も出展するのだけれど
出す作品で頭を悩ませている。
自分のブースと、センセンチブースと参加するので
どちらも考えなくてはならない。
センセンチは今年も野外に作品を置くのでこれまたどうするべえ。
新しい作品作りたい気持ちもあるんだけど。
うーん!どうするか!時間の問題もあるしな。同じことくり返したくないし。
どれが一番満足いくかな?

一つ展示を行なうに、考えることが沢山でてくる。
どの作品をどのように見せるのか。
額はつけるのかつけないのか。
売り物はもっていくのか、作りたさなくてもいいのか。
案内状もださなくては。
搬入搬出はどのように行なうのか。
車に作品は入るだろうか。梱包はどの程度した方がいいのか。
誰にいつどのくらい手伝ってもらえるのか。
このようなことで頭を使うのが本当に苦手だ。
あと作品作り。(これ一番大事)
いっぱい相談にものってもらうし手伝ってももらうのだが
グループではなく自分だけで行動しているので
決定権というものがすべて自分にある。
最終的なことはすべて自分で決めなくてはならない。
良くするも悪くするも全部自分次第なんだよなー。
いくらでも怠けられるし、いくらでも頑張れるのだ。
頑張り過ぎると倒れるし、怠け過ぎると後悔するので
その中間でいい感じのところを進んでいかねばならない。
もう一ヵ月ないのよね!


父が朝いのししが網にかかっているのを見つけた。
夕方そのいのししは肉の固まりになって我が家にやってきた。
今日の夕飯はしし鍋です。

チーン。


2005.9.25

土曜日に松本美術館に草間やよい展を見に行ってきた。
いい展示だったと思う。
作品の年代がバラバラだったのも私的には面白かった。

作品を作っていると、どんどんと変化していくのが自分でもよくわかって、
失われていくものと、生まれてくる(というか自分の中にあるものが出てくる
という言い方の方が近いような)ものとがある。
ああ、変わっていってしまうんだなあという少し寂しいような気持ちと
でも次へいきたいという気持ち。
だけど大事なものというか表したいものというのは
そんなに変わる事ってないのかなと最近は思う。
全然違うような作品を作ったとしても「本人」って出てしまうのではなかろうか。
ここのところ、自分が何が好きなのかというのが、
昔好きだったものに戻ってきているような気がしていて
ああ変わらないもんなのかねえ・・・とか感じることが多かったのもあって
そんなことを考えた。

草間やよいは高校の時に
「似てるねえ」だか「知ってる?」みたいに言われて初めて知った。
見てみて「ああ似てるなあ」というのを思った。
私は頭は病んでいないけど(幻聴とか幻覚とかは今のところないし)
体がぼろぼろでそちらは病みまくっていて
どちらもこの世界生きるの大変だぜみたいな部分は似ているなあと思う。
だから共感というか共鳴する部分があるのかなあとか。
中学の一番きつかった時期に丸とかびっしり描いてたしなあ。
兄に心配されてやめたけど。
そうすると落ち着いたんだよね。同じだなと思った。

あのぐらいいろいろと「徹底」しているとかっこいいと思ってしまう。
本人は大変でしょうがないのかもしれないけれど。
でも作品を描くことで「救われる」というののお手本っていうか。
最近の作品はなんだか楽しそうな感じもするし。
いくらでもでてくるあの感じが見てるだけで感じられて
気持ちいいと思った。私はやりたいだけやると倒れてしまうので
うらやましいとさえ思う。でもやったら大変だろうな。
「無理」っていう言葉の意味がやっとわかってきたので
私は自分のやれる範囲以外のことはもうやらないけれど。
できなくはないけれどやらないを選択するということだ。
それは辛いが、私は生きるのを選ぶので仕方ない。

展示を見てると自分の中の眠っている回路とかも起きてきて
やりたいことがたくさん出てくる。
私はもう吐き出すことに使いたいとは思わないけども。
そういうのも大事かもしれないなとも思う。
ただ作りたいものを作ろう。

アトリエ欲しいなあと思った。
汚してもよくて、絵の具を出しっ放しでもいい空間が欲しいよ・・・


2005.9.22

「清潔検査」って昔あったよね。
ハンカチと鼻紙と両手を机に出すやつ。
清潔検査ってすごい名前だよね。

これから「チャーリーとチョコレート工場」見に行くぞー。
た の し み。


2005.9.21

近所のじいさんが亡くなった。
この人は人を殺したことがあった。
事故じゃなくてね、頭を斧で割ったらしい。
だからかどうなのか知らないが
死に顔が「ものすごい」形相だったらしい。
普通死ぬと、病気でものすごい苦しかった人でも
スーっといい顔になるもののようだが。

実際殺された人が「迎えに」来たのかは知らないけど。
そういうのって私は「ある」と思うんだよね。
別に本当に迎えにくるわけじゃなくて、
死んでしまった人はそれ以上物質的なこととかはできないけどさ
「残る」でしょ、いろんなものが。記憶とかさ。
それがきっと「お迎え」みたいなものも作るじゃないかな。

我が家の近くにそんな人が住んでいたのにもびっくりだし
ばあちゃんが事件の話しを嬉々と話すのにもびびった。


2005.9.19

「人の生きる価値ってなんだろう」と聞かれたけど。
私は生きる価値は「生きること」だと思う。
それ以外のものは全て付け加えのような気がする。

「価値」って言葉自体なんだか「比べる」っていうのが
前提にあるようで私は好きじゃないというか
よく分からないんだけどさ。

自分が生きる以外に生きる価値などあるだろうか?
人が必要としたら価値があるのか。そうではないと思う。
誰がこうだからとか、誰はどうだからとかそういうんじゃないだろう。
自分の価値など自分で見つけるしかない。
自分以外から必要とされているなんてどうしていいきれる?
側にいてくれるから?仕事をくれるから?愛してくれるから?
他人は所詮どこまでいっても他人なのだ
心の中まではわからないよ。
そんなわからないことでもう私は悩みたくないのだ。

ただ私は好いてもらったら嬉しいからやっぱり好きになるし。
ありがたいなあと思うから私も役にたちたいなあと自然に思うし。
困っていたら力になれるかなあとか思う。
そこに「価値があるか?」とかいう意識はないと言えば嘘になるけれど
無意識にさっと手が出ちゃうことって結構あるのでは?
それでいいじゃんと思うんだけど。

自分を必要としてくれる人がいて
もしその人がいなくなったら
私にはもう価値がないと言えるか。
私は誰にどう思われようと生きる、それが価値でいいのでは?

一体何が欲しいのだ??

大勢の中に今日は私がいるけれど
いないという選択幅もあった。
それは誰だって変わらない。
ただ、私はそこに行くことを選んで行動しただけだ。
そこには価値という言葉の前に「いる いない」であって、
「今日はあの人いないねえ」「今日はいるねえ」
まずそれがあって
いれば「ああ調子がいいのかなあ」とか
いなければ「用事があったのかな」があって
それから
いれば「元気そうに話しているなあ」とか
いなければ「なんだか寂しいなあ」とかがあるのかもしれない。
でも「なんだか寂しいなあ」と思わせなければ
その人には価値がないなどと私は絶対に言えない。

みんなに同じだけ必要とされるなんてどうやったって無理だ。

私は薬がないと生きられないし
足だってまともに歩けない。
だったら人として生きてる価値が低いのだろうか?

「価値」って言葉、やっぱり苦手だな・・・・

「価値感」ってあるからね。
これは私の価値感であって全く違ったものが大事という人も
きっと山程いるんだろうねえ。


2005.9.17

何かの組織の一員になってしまうと
自分の判断だけで決められないことだらけなのだろうね。
だから自分の要望が聞き入れてもらえない時にも
「仕方ないよな。私が同じ立場でもそう言うかもしれないな。」
と思ってしまう。

やりたいことがあった時に、できないと言われると
私は結構「はいそうですか」と言ってしまえていた。
嫌がられることを無理にしたくないという気持ちで。
でもここは譲れないんですというのをちゃんと示せば
どうにかなることは多いのではなかろうかと思うようになってきた。

いろんなことを諦めざるを得なかった人生だったので
「じゃあいいよ」とか「仕方ない」とかで済ませるのが
当り前になりつつあった。

それじゃいかーん!

作品には妥協はしないけれど、「見せる」ことにあまり力を注げない自分がいた。
描き終わった作品には正直あまり興味がなかったりするのだ。
だけど作って、きちんと見せてというのは大事では?
自分が他の展示を見に行く時に
「楽しませてくれよ。びっくりさせてくれよ。感動させてくれよ。」
と思って見にいくではないか。
もっとエンターテナーにならなくてはならんのでは?
見せ方にも本気出さねばいかんのではないのか?
舞台とかに関わってすごく強く思ったよ。
人を楽しませるって快感なんだーと。

もっと頑張らねばならん部分あるねえ。


2005.9.15

はい病院ですよ。
朝から出掛けた。
待ってる時間隣に座ったおじさんが素足に履いていた靴を脱ぎ
指の間をボリボリかじりながら小さい声で文句を言っていた。
「まだ呼ばれないのかよ・・・」
「こりゃあ問題ありだぞ・・・」
一定間隔でそんなことをずっとくり返していた。
このおじさんは怒らないでもなくどのくらいかかるのか聞くでもなく
一体何がしたいんだろうなあと思いながら待っていた。
(ぶつぶつしたかったんだろうか)

今日は前から聞きたかったことを聞こうと思っていた。
お金に関することなんだけど。
私の国民保険とかの保険料とか年金のお金とか
全部親に払ってもらっている。結構な額だ。
私は特定疾患というやつで医療費がある程度免除されてはいて
その免除を受けるには保険料をしっかり払っていなくてはいけないものだ
と何の疑問もなくおかねを払ってもらっていたんだけれど。
職探ししている間など場合によって年金などを払うのを待ってもらえる制度もある
(そりゃああって当然なんだけど知らなかった)
というのを知った時に、ん?じゃあ待てよ、私のように
働けない体ならそれにみあった制度もあるのではなかろうか?
と思っていたのだ。
いつまでも親が元気なわけじゃないだろうし。
そうなった場合私はどうなるんだろうか?とか。
自分で調べようかとも思ったが、お金関係は幅が広くて
どこをどう調べればいいのかさっぱりだったので、聞くことにした。
あと、図書館で「車椅子用の駐車スペースに置く場合は障害者手帖を置け」
というように言われた時に
(今は制度を変えて、いちいち行く度に用紙に記入するというのになった)
「手帖ないんですが」と事情を言ったら、図書館の職員が
「そういう場合でも出る書類があるはずだ。」と何度も言うので
そんなものがはたして本当にあるのか?と疑問に思っていたのだ。
こういう免除とか援助とかは
「自分から申請しないとダメー。知らない人のことはしらなーい。
え?どこで知れって?そんなことまで面倒みれなーい。」
というように出来ているというのが分かってきたし。

医者に言ったら「じゃあソーシャルワーカーさんと話しをしてみて」
(そういうことまで知っている医者はいないのだ。
みんな「いや、俺は医者だから」みたいな。悪く言っている訳じゃなくてね。)
ということになり、この間とてもお世話になった橋本さんがまた来てくれた。
私のことは覚えてなかったが、話したら思い出したようだった。
そこで「受けられるかはわからないけどこういう制度はある」というのを
教えてもらった。ふむふむ。「だけどまた書類が沢山いるよ」というのも聞く。
障害年金というやつで、もし申請が通ればいくらかは知らないけど
生活補助というような形でお金がもらえるかもしれないらしい。
だけどやっぱり障害者として認定されて手帖を持っていることが条件らしい。
うーむ。
「あなたは一応一人で歩けるし、自分でトイレにもいけるし
食事もできるし、お風呂にも入れるのよね・・・」
そりゃそうなんだけどもさ。
「あとお医者さんがまだあなたが若いから『障害者』というものに
してしまうのをためらったのかもしれないし・・・」
ん?これっておかしくないか?
私自身を生きている「私」は変わらないのに「手帖」がでれば
私は「障害者」になって、ないと「健常者」なのか?
わけわかんねー。
歩けなくなったすぐのときは確かに「障害者」という言葉に
すごく敏感だったように思う。
だからこの考え方も分からなくはない。
だけどしょうがないじゃん。
生きるに障害ありありなんだもんよ。

しかもお金ないんだよ我が家には!切実に!
すべこべ言ってる余裕ないの!

無理かもしれないが一応手続きだけはとることにする。

車の書類については「たぶん駐車禁止除外指定車というやつだと思う」
が、それも手帖がないと出せないようだ。
なんだダメじゃんよ!と思うが「これも言うだけ言ってみたら」
ということで帰ってきて即行警察署(警察が発行するんだって)に電話。
「担当のものと変わります」
と言われてでてきた男の人。
一言聞いただけで「あ この人頭固い」と分かるような人。
「手帖ではなくて医師の診断書とかではダメですか?」
と言ってみるもやはり手帖がいると言われる。
「そこをなんとか」と言うと少し待たされて
「やっぱりダメ。手帖がいる。」
「不自由なんですよ。」と訴えるとまた少し待たされて
「やっぱり手帖で障害の階級をちゃんと示してもらわないとならない。」
(なんだよ手帖手帖うるせぇなぁ!←心の声)
「例えば手帖もらえるのは、日光にちょっとでも当たると死んじゃう病気とかあるよね?
あとは心臓とか腎臓疾患とか、●●とか●●●とか、あと人工股関節の人とか・・・」
「!私も人工股関節の手術しなくちゃいけないんですけどなかなかふみきれないんです。
それでもダメですか?」
「んー手帖を出すのは区役所の仕事なんだよね・・・。こちらでは決められないから・・
とにかくこちらの申請をするには手帖がないとできないことになってる。」
(じゃあなんだよ!無理やりでも手術しろってことかよ!ガアアア!←心の声)
「そうですかわかりました他にも相談して聞いてみます。」がちゃん。

ふう。すげー消耗したぜ。
世の中わけわからんことだらけじゃ!


2005.9.14

午前中にリビング新聞社の取材。
ちょっとどたばたした感じだった。
が、新しいカフェなど知れたのでよかった。
インタビューとかアンケートとか答えるのに慣れることってあるのだろうか?
そして私の作品とこのホームページだけを知っている人と会うと
「会ったら何だかいろいろ見抜かれそうな感じだと思っていた。」
とか言われるんだがどうしてだろうか・・・私はエスパーか?
観察はすごいするけどさ。
こんなに自分を出している感じなのに。
いや、全部私の生活とか見たらたぶんみんな引くと思うし・・・
今日も一人ラーメンズ状態で家族にうざがられるわ
あまりにテンション高いので心配され・・・だったし。
自分の近くの人は私がいかにダメでおばかちんか知っている。
人間としてぼっこり欠落している部分があるのが自分でもわかる。
そこを埋めたくて創作とかしている部分もあると思う。
それだけじゃないけど。
満たされたいたらこんな大変なことしないんじゃないかなあ。

今日も「なんだか会ったら普通の人ですね。」みたいに言われて
どんなのを想像していたのかこっちが知りたいくらいだ。
というか普通ってなんだ?
なので聞いてみたら
「才能のあるということは特殊な能力があること」
というように捉えているらしい。
ただ筆を持って紙に何かを描いているだけだよ・・
空とか飛べないし。
しかも私才能とか(おお怖い言葉)ある部類の人間じゃないよ。
というか才能ってなんだ?


2005.9.12

ダンス公演昨日終わった。
来てくれた方々本当にありがとうございました。
報告をもくもくと書いた。


2005.9.3

午前中は絵を描いた。
カラーで描いてみたけど、
うーんいまいちかもしれない・・・
ずっと見ているといいんだか
悪いんだかさえわからなくなる。

午後は絵の額装をした。
額に入れるとやはり見栄えはするなあ。
黒ぶちなのであの白い空間でどう見えるかだな。

2005.9.2

朝から絵を描く。
午後は加藤さんとかみどうそんさんがわざわざ額とマットを届けてくれる。
ありがたすぎる。。
感謝感謝です。
夕方から静岡でミーティング?があるも参加できず・・・
田舎って不便だ。